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世界のライバル国紹介シリーズ、第4弾です。
初回デンマーク編は前ブログの2013年秋でしたね。そして2014年にはNZを紹介、ちょうど日本のボート界でもNZの知名度が一気に広まった時期でした。そして、昨年3年半ぶりにシリーズ続編となる紹介記事を書き、ここでは東欧Rowing各国を旅してみました。

世界のライバル国紹介シリーズ 過去履歴
第1弾「最強デンマーク列伝」
第2弾「脅威!NZL、オールブラックス」
第3弾「華麗なる、東欧Rowing①」
   「華麗なる、東欧Rowing②」
   「華麗なる、東欧Rowing③」

イギリス、ドイツ、アメリカ、イタリアなどRowingメジャー国には未だふれてないのに、どちらかといえば人口は多くないがRowingにおいて世界トップで確かな存在感を見せる個性的な国を紹介してきています。いずれこうしたメジャー国もチャレンジしたいと思いますが、こういう国は有名過ぎて知られているところがあったりしますよね。

今回はもう少しメジャー感があり、タイムリーなこの国をお届けしたいと思います。個性的ではあるがボート大国といえる、日本では豪州(ごうしゅう)と呼ばれるこの国、オーストラリアです。
コアラとカンガルーなど独自の生態系を持ち大自然が広がる広大な国土を背景に、シドニーオペラハウスなど近代的な景観の大都市が点在する近未来大陸国家オーストラリア。スポーツもさかんなこの国では、Rowing強国としても世界に知られ多くの素晴らしいボートマンを輩出してきた歴史ある太平洋の国、豪州を見てまいりましょう。長編であります。









オーストラリアの国旗
オーストラリア
南太平洋に位置する、オセアニア地域最大の大陸国家。NZなどとともにイギリス連邦加盟国であり、オーストラリア大陸とタスマニア島および多数の小島からなり、面積は世界6位です。国名はCommonwealth of Australia、オーストラリア連邦です。





1.オーストラリアの基礎情報
日本からはほぼ真南に位置し、日本標準時子午線である東経135度の線を南に引いていくと、ちょうどオーストラリア大陸のど真ん中を通っていきます。オーストラリアは東西に広いので、東部時間、中部時間、西部時間と3つの時差があり、シドニーやメルボルン、ブリスベンなど主要な都市がある東部時間は日本より東にあるため日本との時差が+1h、つまり日本が朝7時の場合、シドニーはもっと日が昇っており朝8時ということになります。
また、世界地図で見ると何となく南極に近いのではないかと錯覚しますが、赤道をはさんだ日本とオーストラリアとの距離がおよそ6850kmに対し、オーストラリアと南極大陸との距離は7800km以上離れているということで、日本のほうが1000kmも南極より近いのですね。意外でした。


oceania-1.jpg
世界各国のサイトより画像転載
太平洋諸国の位置関係。オーストラリアは日本の真南。面積でいえば日本の38万㎢に対しオーストラリアは770万㎢で20倍にもなります。日本がすっぽり入ってしまいます。
ちなみにニュージーランドは日本と形が似ていますよね。


人口はおよそ2400万人、日本は1億2600万人ですから日本の5分の1くらいとなります。主要都市はオーストラリア最大にしてオペラハウスと美しい港湾で有名なシドニー(430万人)、やはり大きな港と文化都市のメルボルン(380万人)とこれは巨大都市。名古屋市(230万人)よりも多く、横浜市(370万人)とメルボルンが人口でいえば同規模ということになりますね。シドニー、メルボルンともに五輪開催都市としても有名ですね。このほか温暖で過ごしやすいブリスベン(186万人)、西海岸のパース(155万人)、南極海に面した文化と芸術の都アデレード(115万人)と、100万都市が5つもあります。首都キャンベラは首都機能の集中する行政都市なので35万人と第8の都市になります。これら人口は統計の調査や資料によって異なるようで、例えばシドニーは500万人あるいは700万人とする資料もあるようです。
Australia-State-Map-1 旅行のともより
旅行のとも、Zen Techサイトより画像転載
各州の州都として主要都市が海岸線にそれぞれ存在し、いずれも港湾都市として発展。1770年の発見以来、特に19世紀に港を拠点に内陸の探検、調査が進み、海外からの移民と開拓によって成り立った典型的な国といえる。



シドニーオペラハウス find travelより
find travel.jpサイトより写真転載
有名なオペラハウスが美しい、ニューサウスウェールズ州の州都でありオーストラリア最大の都市シドニーを中心に、個性豊かな大都市が多いオーストラリア。オペラハウスは昼間も夜も壮観ですが、この夕焼けのシーンも壮麗ですね




エアーズロック 阪急交通社
阪急交通社サイト、オーストラリア観光ガイドより写真転載
ウルルと呼ばれる、高さ335m周囲9.4kmという世界で2番目に大きい一枚岩である世界遺産、エアーズロック。東京タワーより高いなんて!アボリジニの聖地であり、世界の中心、地球のへそと呼ばれる。




グレートバリアリーフ akippe0314より
akippe0314.wp.xdomain.jpより写真転載
世界最大のサンゴ礁、世界遺産のグレート・バリア・リーフ。オーストラリアの北東部、クイーンズランド州沿岸の珊瑚海に約2600kmもの距離にわたって存在する。多くの生態系が棲息しているほか、美しい景観とビーチを求めて観光客も大変多く、スキューバダイビングなど海洋レジャーのメッカでもある。ハート形の島も有名。




オーストラリアの基本情報は、こちらのサイトなどもご覧ください。
オーストラリアの基本情報まとめ







2.オーストラリアの国旗
ところで、オーストラリアの国旗とお隣ニュージーランドの国旗は似ています。
オセアニアの両国として何となく比較されやすいこの2つ、国旗も似ているとは。
オーストラリアとニュージーランドの国旗

2つとも国旗デザインはイギリス連邦であることをあらわすためにイギリス国旗のユニオンフラッグ(ユニオンジャック)を左上に配しています。これはブルー・エンサインと呼ばれイギリスに関係する組織や地域が使用したりします。
違いといえば、旗の右側にある南半球の国であることを意味する南十字星。ニュージーランドは南十字星の一等星であるα(アルファ)星やβ(ベータ)星など三等星以上の4つの星ですが、オーストラリアは中央付近にある四等星のε(イプシロン)星も加え5つの星としています。そして星の色、オーストラリアは白い星ですが、ニュージーランドは赤い星を白で縁どっています。さらに星の形も違います。ニュージーランドの星はいわゆる星形の五稜星(ごりょうせい)ですが、オーストラリアは七つの角がある七稜星を使用しています。これは、オーストラリアの6州1準州、つまり7つの州を象徴しています。この七稜星をユニオンの下と南十字星にデザインしています。ただ、中央のイプシロン星は五稜星でありそこが少しややこしいですね。まあとりあえず、オーストラリアは白い七稜星、ニュージーランドは赤い五稜星で見分ける、星の数も違う、というように意味とデザインはやや異なるということです。
オーストラリアの国旗は1901年使用開始(のち若干変更し1909年制定)、ニュージーランドは1902年制定と、制定された時期も似ています。このようにオーストラリアをはじめ国旗には色々な意味や由来があります。ブレードカラーのように、当ブログではこうしたデザインの意味や歴史などについてもこだわります!

ちなみに星といえばなぜ五つの頂角をもつ形の五稜星(五芒星、ごぼうせいともいう)で表されるのか。多角形の各辺を延長し得られた交点を結んだ図形を星型多角形といい、五角形と六角形のものを特に五芒星、六芒星といいます。
五つの要素を並列に図案化できる記号として洋の東西を問わず使用されてきたということで、ペンタグラム(星型五角形)ともいいますが世界中で魔術の記号ともされるそうです。幾何学的にたいへん美しく、それぞれの線分は黄金比で成り立っている図形というのです。統制と均整がとれなおかつ黄金比の図形は美しく、数字における法則が成り立ちます。
五芒星 Wikipedia

星 Wikipediaより
五角形の辺を延長して結ぶとこのいわゆる星形になる。五つの頂角、この内角の総和は180°になる。

私はただ単純にキラキラ輝く星の光条(光芒ともいう。光源から放射状に伸びる光のすじのこと)が五本に見えるために表したのが星形と思いましたが、図形や数学の世界は単純明快でもありかつたいへん奥が深くRowingと共通点があると思います。
こんなサイトもありました。
小さな天文学者の会 星はなぜ☆と書くか?

五芒の星形は一筆書きもできる図形として、メールの絵文字としても、皆さん身近な図形ですね。思えば、Rowing動作のサイクルも一筆書きの単純明快な運動でありますが、螺旋に変化する数学の真理を内包した宇宙的サイクルでもあるのではないでしょうか。キャッチ、ドライブ、フィニッシュ、ハンズアウェイ、リカバリーと5つの要素を一筆書きの流星のように時系列に沿ってなめらかに描き、これを連環でスパイラルに継続しスピードに昇華し、速度を上げてビッグバンのようにエネルギーをもって艇を加速させる。タイム、スピード、パワーとすべて数字で表すことができ、黄金比率に近づくときに最も美しく速い艇運動となるのでしょうか。
Pleiades_s.jpg
http://www13.plala.or.jp/nanatuboshi/より画像転載







3.オーストラリアの歴史
オーストラリアの歴史について簡単にふれましょう。
オーストラリアは、日本では豪州と呼ばれます。日本語による当て字で「濠太剌利(ゴウタラリ)」と書き、オーストラリアの音訳として表記されました。濠の字が常用漢字ではないということで、さらに豪の字が使われています。また、このように外国の国名を漢字で書くことが多くなった幕末から明治期にかけ、オーストラリアは欧州各国の植民地であったため、オセアニア一帯を「豪州」と呼んだのです。その名残で、「豪国」ではなく「豪州」と日本では表記しているんですね。ちなみにシドニーは「雪特尼」、メルボルンは「墨耳鉢恩」、ブリスベンは「巴里斯班」だそうです。うーん、当て字ってなかなか読みにくいですね。カタカナは便利。

また、Austaraliaはラテン語で「南の地」を意味するterra australis で、これはヨーロッパにおける伝説上の大陸、テラ・アウストラリス・インコグニタ(ラテン語 : Terra Australis Incognita)のことを指しています。南の猿人、アウストラロピテクスのように、「南の」というところがオーストラリアの語源になっているわけです。
間違われやすい国同士ナンバーワンと思われる、オーストラリアとオーストリア。音楽の都ウィーンで有名な中欧のオーストリアは、英語ではRepublic of Austriaで確かに豪州のAustraliaとも綴りが似ていますが、公用語のドイツ語ではRepublik Österreichでエースターライヒと読み、「東の国」という意味です。オーストラリアが「南の地」、オーストリアが「東の国」なので、意味も場所も全然違うのですが、この両国は世界でもよく間違われるそうです。皆さん、ご注意を!
このようにオーストラリアはかなりメジャーなイメージですが、何だか色々間違われやすい要素も持っていますね。日本も色々混同されたり間違われていたりするんだろうな・・・。


およそ5万年前、オーストラリア一帯は海水面が低かったため、ニューギニア島やタスマニア島とつながっていました。また、東南アジアのジャワ島やスマトラ島、ボルネオ島はアジアと地続きで、海域は現在よりも狭く航行が比較的容易として、先住民のいわゆるアボリジニが渡ってきたとされます。南インドから渡ってきたアジア系のモンゴロイドであるという説が最近は有力で、ポリネシアからのオーストラロイドであるニュージーランドのマオリ族とはまた違うようなのです。ポリネシア(ハワイ、タヒチ、トンガ、サモア、ニュージーランドなど)、ミクロネシア(グアム、サイパンなど)、メラネシア(ニューカレドニア、フィジー、パプアニューギニアなど)の海洋文化とまた少し異なる、東南アジア系からのオーストラリアの前史時代。
南太平洋の数々の先住民文化、さまざまな王国や社会秩序についてはまだまだ研究途上だそうです。ムー大陸の伝説は神秘的ですね~。


地理的に他の大陸から隔絶されたオーストラリアは、アボリジニが独自の文化で暮らしていく中、例外に漏れず白人の影響を受けていくこととなります。1606年にスペイン人のトレスがニューギニア島との海峡を発見、しかし大陸発見とはなりませんでした。また同年、オランダ人のジャンツが赤道付近の北部に上陸し、調査しましたが入植には向かないと判断。1644年、オランダ人のタスマンがタスマニア島を発見。この名はのちに発見者の名をとって命名されました。

そして本格的にオーストラリア開拓の契機となったのは、やはりこの人キャプテン・クックでした。ニュージーランドを発見したイギリスのスコットランド人、ジェームズ・クックは偉大な航海家であり歴史を開いた偉人でした。一介の水兵から英国海軍の艦長にまでなったクックは、3度の太平洋航海で、数々の功績を果たします。第一回の3年間の航海で、英国軍艦エンデバー号に乗り金星の太陽面通過の観測を目的にまずタヒチに渡り、その後ヨーロッパ人としてタスマンに次いで2人目のニュージーランド到達者となります。彼はクック海峡を発見しニュージーランドが南島と北島に分かれていることを知り正確な地図を作りました。さらに伝説の南方大陸(テラ・アウストラリス)を求め、1770年オーストラリア東海岸にヨーロッパ人として初めて上陸を果たしたのです。シドニーのボタニー湾に上陸し、オーストラリア東海岸の英国領有を宣言しました(資料により諸説あり)。

イギリスに凱旋したのち、クックはその後も大航海を続けます。既存の大陸より広大であると信じられていた南方大陸の真実を探すため史上初めて南極圏まで突入したり、第3回航海ではハワイ諸島であるオアフ島とカウアイ島も発見します。このときクックが航海した軍艦がレゾリューション号。断固たる決意の意味です。ちなみにエンデバー(努力を意味する)はこのクックの船にちなんで毛利衛さんや若田光一さんらが乗ったことでも知られるスペースシャトルにも使われた名ですね。造艇メーカーのレゾリュートがクック船長のレゾリューション号にちなんでいたら面白いと思いましたが、関連性はなかったみたいです(笑)。
つまり、クックは今日のニュージーランドとオーストラリアの建国に関わる祖と言ってもいい人物だといえるのです。それだけではない、オーストラリアとニュージーランドが今日でも水上スポーツであるRowingの強国として世界に名を馳せていることも、こうした歴史から無関係ではないのではないでしょうか。
キャプテンクック Wikipediaより
ジェームズ・クック Wikipediaより写真掲載


1776年、アメリカの独立により英国は植民地を失います。1788年、アメリカの代わりにオーストラリアを当初は囚人を流罪にする植民地として英国は入植を開始、その後オーストラリア大陸全土がイギリス植民地となり、開拓が始まります。内陸を探検し、そして農牧地を開拓。1851年にはシドニー北西で金鉱を発見、1848年のアメリカカリフォルニアに続く大規模なゴールドラッシュで一気に移民熱が加速しました。1851年に43万人の人口がわずか10年後の1861年に116万人になったそうです。その中で多数の外国人集団を形成した中国人の存在を欧米出身者は脅威と感じ、白豪主義といわれる白人による非白人に対する排他主義政策に向かいました。人種差別を法制化し、アボリジニを迫害し、アジア人を排斥しようとしたのです。この政策は1972年廃止になるまで続きました。
1891年、現在の州の核となる6つの植民地が集まってシドニーで議会を開き、10年の歳月をかけ国家の機軸をまとめ1901年、イギリス議会の承認を得ます。事実上の、オーストラリア連邦の独立、誕生です。
日本との関係はこの白豪主義によって排斥の対象でしたが、1902年の日英同盟もあり日露戦争による日本の勝利もあって、親日感情を持ったり反日になるなど時代によって変わりました。第二次大戦ではもちろん敵対し戦争状態でしたが、現在ではオーストラリアにとって日本は中国に次ぐ第2の輸出相手国として、アジア・太平洋地域における重要なパートナーとして結びつきを強めています。
1960年頃になってくるとオーストラリアはイギリスからの影響力も弱まり、アメリカやアジアなど広く世界と関わりを持つようになってきました。戦後、移民政策がさらに推進され、さまざまな国の出身者が移住してきました。先住民や移民を含めて、すべての国民が平等であることを政府が公約。このように現在では、多民族によるユニークな文化を形成する国家となっています。アメリカとはまた違った、植民地と移民の新しいフロンティア国家であるのですが、先住民との融和を果たし海外交流もオープンに開いていきながら独自の文化を育んでいる大きな国なのです。


1956年、南半球で初めてとなる夏季オリンピックのメルボルン五輪が開かれ、オーストラリアはスポーツ分野でも世界的に知名度がアップします。メルボルン市の準備不足や冷戦状態である東西ドイツの統一選手団の問題などさまざまな課題を何とかクリアしオリンピック運動のすばらしさを世界に示したということです。開催国オーストラリアは、ソ連98個、アメリカ74個に次ぐ35個のメダル(金13、銀8、銅14)を獲得し何とメダル獲得世界3位の快挙でした。ちなみに日本は1952年ヘルシンキから参加復帰しメルボルンでは19個(金4、銀10、銅5)で10位でした。
そしてまだ記憶に新しい2000年のシドニー五輪、こちらはアメリカ94個、ロシア88個、中国59個に次いでオーストラリア58個(金16、銀25、銅17)でありこちらも開催国としての面目躍如。ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、イギリスを凌いでおり、スポーツ大国オーストラリアとしても世界に一目置かれる存在になっているというわけです。







4.オーストラリアRowingの歴史、文化
ではいよいよ本題、オーストラリアRowingについて見ていきましょう。
前の3項はボート的には要らなかったですかね(笑)?しかし、ボートを知る中で世界のさまざまな知識、歴史と文化と魅力を紹介するのも私のブログで表現したいことの一つです。それらすべてがRowingの魅力となるでしょう。Rowingで人がつながる。世界が広がる。知識が広がる。それこそ、健全な人の成長と、あらゆるモチベーションにもなると思うのですね。特に小ネタを拾い集めていくことも、光を当ててメジャーにしていくことの営為だとも思います。人が無意識に感じていることの意識化と共有になると思います。はっきり言って、言葉や文学の存在意義はそこですからね。それは人にとっての価値になる。


オーストラリアのRowingは、イギリス植民地時代の1887年、各州でレースをするために協議や規則について話し合われRowingオーストラリアの原型がはじまったようです。そしてオーストラリア・アマチュア漕艇協会(The Australian Amateur Rowing Council)が1925年に設立。1982年にアマチュアの字がなくなりオーストラリア漕艇協会となり、1996年にRowing Australia Incに、2007年にRowing Australia Ltd.と改めました。まあ、シンプルにRowingオーストラリアですね。
現在、ハイスクールや大学、地域やクラブまで幅広い年齢層で15000人がRowingオーストラリアに登録し活動。185以上の学校とローイング・プログラムを提供する156のクラブを持つ7州で活動しています。ほぼオーストラリアの競技人口として見ていいでしょうが、現役選手で活動しているのはこの実質半分くらいいればいいほうでしょうかね。
日本の例でも、日本のボート競技人口は大学3000人弱、高校4000人前後、中学600~800人、実業団一般が1400人ほど、2012年の資料では8400人で、現在の推計9000人前後か。しかし、市町村レガッタや年1回の愛好家やOBなど含めると、競技人口は2万人に達するというのですから。また、私のカウントの場合、大学ボート部でのマネージャーも競技人口に入れてしまってますから。大学マネージャーは、漕いでいない院生部員などまで含めると1000人近くいるかと思います。


オーストラリアのボート事情。オーストラリアは、ニュージーランド、アメリカ、カナダなどと同じく大学ボートが比較的さかんです。
Group of Eightと呼ばれるオーストラリアの名門8大学にはすべてボート部があります。オーストラリアで最初の大学であるシドニー大(1860年クラブとして創設。大学としては1885年創部)、オーストラリアで初めてのRowing Clubであるメルボルン大(1859年創部)、南オーストラリアのアデレード大(1881年創部)、ブリスベンにあるクイーンズランド大(1911年創部)、首都キャンベラにあるオーストラリア国立大(1964年創部)、パースにあるUWAこと西オーストラリア大(創部不明)、シドニー近郊のケンジントンにあるNSW大ことニューサウスウェールズ大(1956年創部)、メルボルン近郊の名門モナシュ大(創部不明)。
この8大学には含まれませんが、タスマニア大など他多くの大学にもボート部があります。これら大学ボート部はほとんどがRowing ClubではなくBoat Clubと称しています。シドニー大はSUBC、メルボルン大はMUBC。これはオックスフォード(OUBC)やケンブリッジ(CUBC)と似ていますね。私の数えたところ、カレッジも含めるとオーストラリアには70の大学ボートクラブがあります。公立高校や私立学校も含めるとさらにたくさんあり、その上で地域のローイングクラブもたいへん多く、オーストラリアはやはり日本と同等以上のクラブチームが存在しているようですね。

特に、オーストラリアの大学ボート部はオープンで、大学の学生でなくても会費さえ払えば所属が可能だったりします。15歳以上とかなら入ることができ、ジュニア、ユース、エリート、クラブ、マスターズとそれぞれのプログラムを用意しRowingを楽しむことができるのです。これは素晴らしいシステムですね。メルボルン大の学生でなくても、俺はMUBCのメンバーだといえるのです。
日本の大学でもこのようなクラブのあり方はぜひ模索していきたいですね。
シドニー大学ボート部
こちらはシドニー大学ボート部のW8+メンバー
Sydney University Boat Clubサイトより画像転載








5.オーストラリアとNZのライバル関係
Rowingオーストラリア(以下RA)は、オリンピック、世界選手権、U23世界選手権、ジュニア世界選手権におけるオーストラリア代表の選考を行い、全国レベルの4つの選手権を管理運営しています。

また、オーストラリア代表クルーは、トランス・タスマン・レガッタ(Trans-Tasman Regatta)にも出漕し、RAはその選考派遣も行います。これはタスマン海をはさむ両国、すなわちオーストラリアとニュージーランドの間の交流と強化を目的としたレガッタシリーズです。まあ、豪とNZの対校戦みたいなレガッタであります。やはり両国はよきライバル!
何と最初に豪とNZの競漕が始まったのは1888年です。早慶レガッタは1905年に始まりましたからさらに昔、そして東商戦が1887年第1回が行われたのでその翌年ということになりますね。

トランス・タスマン・レガッタは定期戦として整理され公式のテストシリーズになったのは1961年、NZで行われました。1965年にはタスマン海を渡りオーストラリアで開催、このレガッタはエリートレベルをめざしていましたが、両国とも世界選手権をめざしていたためそのレベルで継続するのは困難になってきました。いくつかのスポンサーのもと、この定期戦は続いてきましたが、現在ではこのトランス・タスマン・シリーズはユースカップとなり、21歳以下の代表チームを選抜し豪とNZの間でレガッタを行うようになりました。世界大会、すなわちジュニア世界選手権とU23世界選手権はそれぞれU19とU23の選手で構成されます。トランス・タスマンはその間のU21世代の代表クルーとしてポジティブな強化の機会となります。

トランス・タスマンの種目はすべて21歳以下のU21。
M1X、M2-、M4-、M4X、M8+。
W1X、W2-、W4-、W4X、W8+。
LM1X、LM2X、LW1X、LW2X。
そして男女混合のMixed2XとMixed4Xです。
以上16種目で、総獲得ポイントによって勝敗を決めます。目的は若いU21世代の選手のためにエリートレベルへの道をつくり能力開発の機会を提供すること。そして、若い選手が国を代表する機会を通じ、Rowingにおける代表の仲間やライバルと交流を図る機会の提供です。
トランス・タスマン・レガッタ
トランス・タスマン・レガッタ http://kellydrenth.blogspot.comより写真転載


このトランス・タスマン・シリーズの優勝国には、ラスティ・ロバートソンの名を冠したトロフィーが授与されます。
ラスティ・ロバートソンは、豪とNZの両方で活躍した伝説的なコーチです。1927年にNZで生まれたロバートソンは、オタゴのオアマル・ローイングクラブで16歳のときにボートを始めました。しかし重い交通事故で背中を痛め、早期に選手引退せざるを得なくなりました。その後はコーチになり、オアマルを10年指導し彼はクラブキャプテンとして活躍、全NZ選手権で4度優勝に導きます。1962年、オーストラリアのパースで行われたコモンウェルスゲームズ(イギリス連邦加盟国が集まる、4年に一度の大会)での国際大会に優勝、NZ代表コーチのキャリアをスタートさせます。そして1968年、メキシコ五輪でNZはM4+種目において初めての金メダルを獲得するのです。それまで銅と銀が一つずつありましたが、NZのボート競技での金メダルは初めての快挙。さらに、1972年ミュンヘン五輪でM8+金メダルを果たすのです。ロバートソンがコーチしたNZローイングがエイトで世界の頂点に、これはすごい!1971年、1972年にNZのエイトはスポーツマンオブザイヤー賞にも輝き、NZの歴史にも燦然と輝く黄金時代の一つのピークでした。いま、NZではその黄金の記憶がよみがえりつつありますよね。
しかし、1976年モントリオールでM8+3位の銅になると、ロバートソンは代表コーチを解任されます。彼はコーチのキャリアを続けるためにお隣オーストラリアへ渡ります。シドニーのドルモイン・ローイングクラブでシニアコーチングを担当し、数々の国内タイトルを獲得し始めると、今度はオーストラリアのナショナルチームのコーチとしても采配を振るいます。1980年、世界軽量級選手権でLM4-優勝に導くと、翌年も連覇。クルーは自らがクラブコーチを務めるドルモインRCのメンバーが主力でした。その後は1984年ロス五輪M4Xのコーチとして銀メダル獲得に貢献しました。
このように、ロバートソンは豪とNZの両国で世界チャンピオンを育てた稀有なコーチとして称えられたのです。1989年、67歳で亡くなりますが、翌1990年に豪とNZ両国の定期戦であるトランス・タスマンの優勝トロフィーに名を残すことになったのです。
1979-Rusty-Robertson.jpg
豪とNZで世界チャンピオンクルーを育てたラスティ・ロバートソン
Australian Rowing Historyサイトより写真転載








6.RA(Rowingオーストラリア)の理念
Rowingオーストラリアのサイトは、これまたたいへん充実しておりこうした記事を書くのにたいへん参考になります。また、Australian Rowing Historyサイト、これはすごいですね~。さまざまなRowingの歴史の記述もさることながら、五輪や世界選手権でのオーストラリアクルーの詳細なデータが載っています。これは、私みたいなブログを書く人にとっては貴重すぎますね。世界のRowingを調べるたびに、こうした関係者のRowingにかける情熱や記録には圧倒されます。JAPAN ROWINGももっと全データを記録してネットに載せてくれないかな・・・。あとは、まだまだRowingに対する情熱が世界に負けているんだと思います。

Rowingオーストラリアのサイトには、ビジョンとミッションが謳われています。


Our Vision and Mission
私たちのビジョンと使命

RAとそのメンバーと協会は、Rowingコミュニティ全体の戦略的な方向性を提供するために、スポーツプランのすべてを共同開発し採用しました。このスポーツプランは、RA、そのメンバー協会、登録クラブのための具体的な戦略と戦術によって支えられた強力な集団的ビジョンと使命を備えており、そのすべてが私たちのビジョンの達成に貢献しています。

ビジョン(構想):
世界ナンバーワンのRowing国になること。そして、オーストラリアにおける五輪競技のリーダーになること。

私たちのビジョンは強力で、曖昧ではありません。オーストラリアのRowingコミュニティ全体を結びつけるために共通の目標を提示します。我々のビジョンを達成するには、オーストラリアのRowingは以下の活動を必要とします。持続的な国際的成功から、活気に満ちた包括的なコミュニティ、質の高いイベント、すべての人が安全で楽しめる健全な参加機会に至るまでの活動、すべてをオーストラリアの人に提供します。


ミッション(使命):
私たちのビジョンを達成するために、オーストラリアのRowingは、ミッションとして3つの要素の成功にフォーカスします。

1)もっと多くのオリンピック金メダルを獲得する
2)Rowingの公開プロフィールと財務力を構築する
3)より多くの参加者とパートナーを惹きつける




高い志であり、たいへん明快ですね。
世界一を明言し、そしてそれは要するに強化と普及においてナンバーワンになるということです。
また、ミッションにおいても明確で、五輪金はたいへんわかりやすく、そのために情報発信と資金力が必要だと。そしてそれには人を集めるための魅力発信も重要だということです。
これを達成するために、Rowngのリーダーたる協会の具体的な施策と活動があるのです。


RA(Rowingオーストラリア)のサイトには、Strategic Planも載っています。戦略プランですね。

2014年に日本ボート協会HPに示された強化戦略プランや、ビジョンやミッションの文言は、このRowingオーストラリアの内容を参考に作られた感じがするんですよね。2014年頃このRAサイトを見て、どうも日本はこれを参考にしたのかなと私はずっと感じていたのです。
日ボの強化戦略プラン

読者の方はご存知かと思いますが、私はどうせ狙うなら日本は世界一をめざしてほしいと思っています。しかし東京五輪でメダルをというなら、初志貫徹、戦略プランを実行し続けてほしいものです。ただしまだまだ、国際レースの実績以前に、人と資金と情報が足りないことは明白で、日本ボートの課題は常にそこです。実際に金メダルを多く獲得しさらに世界一のボート強国をめざしているオーストラリアに、もっと学び、超える努力をしていこうではありませんか。


rowing australiaサイト

Rowing Australiaサイト、他の強国と同じく充実の情報量







7.豪をはじめとするボート強国の資金力
それから、その資金力についてですが、アメリカ、イギリス、NZなどと同じく、豪も例外なくいくつかのスポンサーとパートナーシップを結ぶことで資金提供があります。

このような記事を書く際にはさまざまなサイトの資料をあたっていますが、今回知ったのは文部科学省の調査資料でした。
「諸外国および国内におけるスポーツ振興施策等に関する調査研究(平成22年度)」というもので、2010年のものですから少々古いのですが、ロンドン五輪に向けた時期のおもなスポーツ強国の施策に関する資料です。

ロンドン五輪でのボート競技メダル獲得ランキングは1位イギリス(金4、銀2、銅3)、2位NZ(金3、銅2)、オーストラリアは金がなかったので9位と下位でしたがメダルは多く、メダル個数だけで見ると5個でオーストラリアは3位(銀3、銅2)でした。

リオ五輪のランキングでは1位イギリス(金3、銀2)、2位NZ(金2、銀1)、4位オーストラリア(金1、銀2)です。

この3国、資料によると、2009年頃のものですが国の施策としてのスポーツ助成金が分配された多くの五輪競技団体の中で、その金額はいずれもボートがたいへん上位でありました。
イギリスでは28競技中ボートが1位(2724万ポンド、約40億円)。
NZでは29団体中ボートが2位(442万NZドル、約3億4000万円)。
オーストラリアでは上位10団体の中でボートが3位(590万豪ドル、約5億円)でした。

これは驚愕の数字というか、全競技の中でボートがもらっている金額が1~3位、そしてだいたいそのとおりにボート競技のメダル数に結果が出ているではありませんか。イギリス、NZ、オーストラリアは投資に見合ったメダル実績を挙げているわけです。
オーストラリアは競技団体の中で3位ですが、1位のサッカー、2位の水泳に次いであまり差がなくボートが3位ですし、4位の陸上より国家予算が当てられているのです。
これらは公的な資金であり、ほかにも公的といえばスポーツくじ、そして先ほどふれたスポンサー資金など、色々な資金源があるので、イギリスの40億円が突出して見えますが、NZや豪もさまざまに財源確保していると思われます。
この文科省のライバル国スポーツ調査は資金面だけでなくかなり詳しい具体策や背景の調査など色々興味深いので、貼っておきます。

諸外国および国内におけるスポーツ振興施策等に関する調査研究(平成22年度)

1-3 諸外国(12ヵ国)のスポーツ振興施策の状況というPDF資料で、各国の状況をご覧ください。







8.オージー、往年の名選手
さて、本当に書きたい箇所はここからですね(笑)!
ライバル国紹介といっても、やはり強い選手、強いクルーの紹介が魅力の根幹です。


まずはオーストラリアで初めての五輪金メダリストは、ヘンリー・ロバート・ピアース。通称ボビー・ピアースです。1928年アムステルダム五輪M1X金、そして1932年ロス五輪でもM1X金と連覇したスカラーです。
1905年にシドニーで生まれたピアース。父のハリーはオーストラリアのスカルチャンピオンで、1911年と1913年の2度の世界選手権に挑戦した名選手でした。あれ?1910年代にボートの世界選手権ってもうあったの?と思いましたが、実は1831年という昔に第1回がはじまったというプロフェッショナルによる世界スカリング選手権というのがあったんですね。舞台はロンドンのテムズ川、プロということは要は賭けレースであり賞金が出て、また裕福な後援者が資金提供していました。当時の市民の娯楽の一つ、まさに競艇といったところでしょうか。イギリス人は競馬をはじめギャンブル好きですね。プロフェッショナルスカラーは、個性がメディアや一般に認知されることが多いため、クルーよりも関心が引く傾向があったとのこと。観客も数万人が押し寄せたといいます。少しでもスピードを上げるべく艇が改良され、この時代に競漕用ボートは進化を大きく遂げます。軽量ボートの開発、アウトリガーの発達、回転ローロック(クラッチ)、スライディングシート。
「World Sculling Championship」 Wikipedia

1860年代から英国以外の海外選手が増えてきて、特にオーストラリアからのプロスカラーが増えていきました。アメリカとカナダも強かったですが、1884年から1907年まで2回カナダに譲った以外はすべてオーストラリアの選手がチャンピオンに君臨しました。
そういうわけで、息子のボビーもこうした血とオーストラリアのRowing強者の土台を受け継いだのか、何と6歳からU-16のレースに出漕し2位になったそうです。本当か?ピアース家の親類にも他競技チャンピオンがごろごろいるというかなり異常なスポーツ一族だったようです。188cm92kgの恵まれた体格に育ったピアースは、国内大会に優勝し、アマチュア選手としてヘンリーレガッタや五輪M1X2度の金に輝いたのです。アムステルダム五輪M1X決勝の7'11という優勝タイムは当時たいへんすごいタイムだっただろうと思います。
その後プロに転向したピアース。五輪にはアマチュア規定により出場できなくなり、カナダ在籍選手として世界スカリング選手権に3連覇を果たすなどプロとしても活躍を続けました。
プロとアマの時代があったRowing。こうした歴史に、強いオーストラリアの片鱗をすでに世界に見せていたのです。
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1930年代のピアース。白黒ではありますが、とても80年以上前の1X艇には見えませんね!
Wikipediaより写真転載




続いての名選手は、メルヴィン・ウッド。3つの五輪メダルを獲得したスカラーです。
1917年、シドニーに近いニューサウスウェールズ州のケンジントンに生まれたウッドは、父が警察だったこともあり高校卒業後にニューサウスウェールズ警察に入隊。ここの警察ローイングクラブが強く、1936年ベルリン五輪のM8+選考に勝ち代表になり、ウッドも19歳でM8+メンバーとして五輪に出ることになりました。しかし敗復でどうやら除外となり、初めての五輪は苦い経験で終わりました。その後ローイングから離れ警察での仕事に努め、また第二次大戦では空軍のナビゲーターを務めていたウッド。
戦後、彼はRowingに戻ってきます。M1X主戦の選手としてすぐさま国内選手権を連勝し、迎えた1948年のシーズンは彼のキャリアにとってハイライトでした。五輪M1X代表に選ばれたウッドは、ヘンリーレガッタにも出漕しM1Xのトップイベントであるダイヤモンド・チャレンジ・スカルで優勝。そして場所は同じロンドン五輪、コースも1850mに短縮されたヘンリーコースで、2位に14秒という大差をつけて圧倒的勝利で金メダルを獲得したのです。
その後も1952年ヘルシンキ五輪でM1X銀、1956年39歳となっていたウッドは地元オーストラリアのメルボルン五輪では10代のマッケンジー選手に敗れM1Xの代表は失いましたが、M2Xで出漕、見事銅メダルを獲得。ちなみにマッケンジーはM1X銀でした。
その後は警察の常勤に復帰し、州の要職などにも就きましたが、メルボルンでM2Xを組んだパートナーが麻薬組織に入りウッドも疑いをかけられるなど晩年は不遇でした。
しかし、警察とボート選手の2足のわらじを履きつつ波乱万丈の競技人生を歩み3個の五輪メダルと多くの国際キャリアを歩んだウッドは、オーストラリアが記憶する名選手の1人なのです。
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精悍な警察スカラー、メルヴィン・ウッド
Wikipediaより写真転載








9.自国開催で風が変わる
地元のメルボルン五輪後、オーストラリアRowingはその後五輪ではやや低迷します。1960年ローマ、1964年東京でメダルゼロ、1968年メキシコではM8+においてあと1/3艇身という1秒弱の差で西ドイツに届かず銀メダル。エイト金という大魚を逸し、実はオーストラリアはこれまで一度もM8+金がありません。そして1972年ミュンヘンでもメダルゼロ。このときライバルNZが一気に台頭しM8+金をさらっていったものですから、オーストラリアとしては心中穏やかではなかったのではないでしょうか。
そして1976年モントリオールもメダルゼロ、1980年モスクワはボイコット。

そしてロス五輪ではようやく戦績が上向いてきます。東欧諸国の参戦がなかったとはいえ、M4Xで銀、W4+で銅。モントリオールの女子種目採用以来、初めての女子種目メダルになりました。さらに、M8+でも3位の銅。カナダ、アメリカの熾烈な金メダル争いには半艇身及びませんでしたが、オーストラリアはライバルNZに0.7秒、2シートほど先着し見事銅メダルを獲ったのです。
ところが次のソウルではまたしてもメダルゼロ。M8+は5位。しかしこれは、次のバルセロナへの雌伏の期間だったのです。



バルセロナ五輪で、豪州にはヒーローが誕生します。
M4-とM2Xによる、オーストラリアのクルーボート初の五輪金メダル、それも2種目です。
M4-はSジェームズ・トムキンス(26歳)、3マイク・マッケイ(27歳)、2ニック・グリーン(24歳)、Bアンドリュー・クーパー(27歳)。
そして、M2XはSスティーブン・ホーキンス(21歳)、Bピーター・アントニー(34歳)です。

このときの流れとして、1989年には世界選手権でもメダルはなく、オーストラリアの強化策にまだ大きな変化はないように見えました。契機は1990年、地元タスマニアのバリントン湖で行われた自国開催のオーストラリア世界選手権。

まずRowingオーストラリアは顧問として旧東ドイツのテオ・ケルナー教授を招聘しました。タイミング的に、ベルリンの壁崩壊が1989年11月9日ですから、すぐさま引き抜いたオーストラリア協会の対応たるや以前から狙っていたかのようなヘッドハンティングだったのでしょうか。何しろ、1988年ソウル五輪では金メダル8個でメダル合計10個と異次元の強さを見せつけていた東ドイツの指導者ですから。ケルナー氏は東ドイツの卓越したモデルと才能識別の設計者だったといい、オーストラリア代表チームのヘッドコーチに推されるのです。また、M4-コーチは名将ノエル・ドナルドソン。医療サポートも完全に整えて、さまざまな要素が重なって、1990年タスマニアでM4-がいきなり世界王者になりました。メダルゼロからの世界チャンピオン誕生。また、ベテランで最高の軽量級選手だったメルボルン大所属のピーター・アントニーも、M2Xで3位とオープンクラスで結果を出します。LM4Xが3位でLW4-は2位、五輪種目ではありませんでしたがメダル4個と、久々に明るい兆しが見えたのは、自国開催での強化策がさっそく効果を発揮したからでしょうか。
翌1991年、オーストリアのウィーンでの世界選手権、M4-は1人メンバーを変えてここでは1艇身半つける強い勝ち方。LM4Xも、若い20歳のストローク、ホーキンスが漕いで0.2秒差の大接戦を制し優勝。軽量級の若いホーキンスとベテランのアントニーは、クラスをオープンに上げてバルセロナM2Xをめざします。
バルセロナに向けては、以前からオーストラリア代表コーチを務めていた実績者のルーマニア出身ラインホルト・バツキがヘッドコーチに代わり、万全で五輪に向かいました。東欧Rowingの成功したエッセンスが入り、オーストラリアは生まれ変わりました。

このように、バルセロナM4-とM2Xの金は、オーストラリアの中で素晴らしい手応えを経て満を持しての成果だったと言えるのではないでしょうか。
そしてこのバルセロナの栄光と自信があり、1993年にシドニー五輪2000年自国開催が決定しオーストラリアRowingの強化が加速され、ついにアトランタでは金2個、銀1個、銅3個とメダル獲得ランキング堂々世界1位となり名実ともに世界一になったのです。さらにシドニーでは金こそなかったもののメダル5個で、地元五輪開催を成功させるという90年代におけるオーストラリア飛躍のストーリーを生み出したのです。
それ以降の2000年代も常にRowingにおいてはメダル3個以上取り続けてアテネ4位(金1、銀1、銅2)、北京2位(金2、銀1)、ロンドン9位(銀3、銅2)、リオ4位(金1、銀2)という、常に世界上位にあってRowingをリードする立場にあり、ボート強国の印象を与え続けるオーストラリアの現在につながったのだと思います。
ここでもともと強かったオーストラリアが、指導陣の整備や勝つためのノウハウ、育成やトレーニングや真に勝ち続けるためのきっかけを得たのは、タスマニアの世界選手権と、シドニーの五輪、この2つの世界大会があったからではないでしょうか。このチャンスを十分に生かしたのです。
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バルセロナM4-金、アトランタM4-金。オーストラリアはM4-、というイメージを最初に印象付けたオーサム・フォーサム(オーストラリアM4-の愛称)の4人
Australian Rowing Historyサイトより写真転載








10.ジェームズ・トムキンスとドリュー・ジン
さて、ではM4-優勝によって一気に世界的ボートマンとして有名になったジェームズ・トムキンス選手を見てみましょう。ここが私が最初一番書きたかったところですね(笑)。私はオーストラリアのファンなんです。


ジェームズ・トムキンス選手は、バルセロナ(M4-)、アトランタ(M4-)、アテネ(M2-)で3個の金を獲得、地元シドニーでは惜しくもM2-銅でした。そして7回の世界選手権優勝があります。
まさにレジェンドであるイギリスのレッドグレーブやピンセント、デンマークのエベセンらに並ぶような偉大なオリンピアンです。出身はシドニー、そして長年活動を続けたのはメルボルンの有名なヤラ川を拠点とするマーカンタイル・ローイングクラブです。このクラブは1880年設立の名門で、30人以上のオリンピアンを輩出、オーサム・フォーサムと呼ばれたトムキンスやジンなどM4-メンバーほとんどが在籍し、さらにこのM4-コーチ、ノエル・ドナルドソンもここの在籍でした。現在ではジョシュア・ダンクリー=スミスもここで活動しています。

1965年生のトムキンスは、ビクトリア州のキャリー・バプティスト・グラマー・スクールで15歳の時Rowingを始めます。200cm98kgという恵まれた体格に成長したトムキンス、数々の国内選手権で実績を重ねていきました。
ジェームズ・トムキンス Wikipedia
オーストラリアRowingを代表する名選手であり名ストローク、ジェームズ・トムキンス
Wikipediaより転載


20歳で早くも代表に選出され、しかもM8+のストロークに大抜擢されたトムキンス。はじめての1985年ベルギー世界選手権ではM8+9位。しかし翌1986年、イギリスのノッティンガムでの世界選手権。再びM8+に選ばれたトムキンス、メンバーもトムキンス以外一新され、その後M4-でも僚友となるアンドリュー・クーパーとマイク・マッケイがクルーにおり、ルーマニア人コーチのラインホルト・バツキの指導のもとソ連に4秒差と水を少し空けて完璧なレースで優勝したのです。トムキンスはこのとき21歳での世界選手権優勝。6番を漕いでいましたが、4番にマッケイ21歳、3番クーパー21歳。のちの金メダルM4-がミドルフォアを形成していたようなM8+でした。
しかし、その後はもう一つ勝ちきれないシーズンが続きます。1987年デンマーク世界選手権はM8+の6番で4位、1988年初めてのソウル五輪はM8+6番で5位。M8+にこだわるオーストラリア、しかしまだ本当に勝てる要素が足りなかったのでしょうか。

1990年、マーカンタイルRCの同じクラブメンバーのマイク・マッケイに加え、サミュエル・パットン、ニック・グリーンをメルボルン大学ボート部から連れてきたトムキンス、この4人で組んだM4-はオーストラリアの代表クラスの艇速を見せました。彼らの相性と成功は即時であり、1990年タスマニア、1991年ウィーンの世界選手権にM4-で優勝しました。
そして1992年、バルセロナ五輪のシーズンにあたりパットンをクーパーとチェンジして臨んだM4-。バルセロナのバニョラス湖では一団の団子レースから全く失速しない素晴らしいコンスタントで徐々に抜け出し、1000mでは早くもアメリカとスロベニアに1艇身差、後半も加速を続けライバルに勝負所を作らせないままトップでゴールしました。見事な金メダル。


彼らの相性抜群のクルーによるM4-の成功により、オアズマン4人組といったような意味を持つ「Oarsome Foursome(オーサム・フォーサム)」の愛称がつけられ、次のアトランタ五輪ではクーパーに代わり今度はドリュー・ジンが新たにM4-メンバーとなりました。ジンは1974年生、196cm90kg。スコッチ・カレッジ出身でやはりメルボルンで活動していました。
ドリュー・ジン Rowperfectより
トムキンスと長くコンビを組み、その後もM2-、M4-で活躍したオーストラリア最高のバウサイダー、ドリュー・ジン
https://www.rowperfect.co.ukより写真転載


アトランタまでは決して順調とは言えないオーストラリアで、特に前年の世界選手権では思わしくありませんでしたが、本番には万全で臨んだエースクルーのM4-金を中心に、W2-金、M2-はレッドグレーブとピンセントに挑んでの銀、M4X銅、そして新種目のLM2XとLW2Xで銅という、終わってみれば過去最高の成績でオージーはメダル獲得ランキングでも1位となりました。
主役はやはりこのオーサム・フォーサム。私はこのアトランタ五輪決勝ビデオが初期のイメージビデオであり、このM4-決勝は100回くらいたぶん見ているのですが、序盤はルーマニアやイタリア、スロベニアが先行し、コンスタント型のオーストラリアはマイペースを守っていきます。1000mでは前3クルーの激しいトップ争いが続きますが、実はフィニッシュラインでは後ろ3クルーがすべて入れ替わって差してしまうという世にも珍しいレース展開です。
オーストラリアが徐々に進出し本来の力を発揮、ここではマッケイがストローク、3番グリーン、2番トムキンス、バウにジンという、最後のハイスパートをマッケイが演出します。1500mでついに先頭に出たオーストラリア、後方にいたフランスとイギリスが猛追し2番手は5艇が横一線で大混戦となります。優勝は加速を続けたオーストラリア、そしてなだれを打ってフランス、イギリスが僅差で飛び込みます。このとき、イギリスの長髪ストロークであるティム・フォスターはシートが動かなくなってしまうのですが根性の上体漕ぎで銅メダルに粘るのです。フランスには紙一重で差し返されてしまいますが、最後は壮絶にローアウト、熾烈をきわめる必見のレースです。このティム・フォスター、次の2000年ではレッドグレーブ、ピンセントとともにオーストラリアに代わってイギリスM4-の時代を切り拓くメンバーになるのですがね・・・。
アトランタM4-決勝ハイライト動画 

abcnetより、アトランタ五輪M4-
表彰式の国歌斉唱で喜び爆発、オーサム・フォーサムの4人。アトランタで五輪M4-連覇の偉業達成!左からSマッケイ、3グリーン、2トムキンス、Bジン。
http://www.abc.net.auより写真転載



シドニーに向けては、今度は万全を期して連勝を続けたオーサム・フォーサム。特に1998年ケルンではアトランタ金メンバーで組んだM4+、そしてダブルワークのM2+で2種目優勝。しかしスイープのライバルであるイギリスのレッドグレーブとピンセントがM4-でくるという情報があったためか、1999年シーズンはトムキンスとジンはM2-を結成し、世界選手権は圧勝。全く新しい若手で組んだ新生M4-は、双子のスチュワート兄弟を中心に、最強イギリス相手に善戦し準優勝。このほか、LM4-ではフェダーセンやエベセンの率いるデンマークや、かのギザビエ・ドルフマン現日本代表コーチが率いるフランスと、オーストラリアはレベルの高いライバル争いを展開していました。男女オープン、軽量級ともに各種目充実。地元シドニーの五輪を2000年に迎えようとしていました。
しかし、アクシデントが襲いました。ドリュー・ジンがルツェルンで重度の腰痛となり戦線離脱。代わって、実力の落ちるマシュー・ロングとM2-を組んで地元シドニー五輪を迎えることになったトムキンス。M2-決勝ではオージーがいつもの最強コンスタントを披露するにはやや精彩を欠くレース展開の中、エド・コーデとグレッグ・サールのイギリスが積極果敢な先行策をとります。しかし、1250mで異変が起き、それまで中団につけていたフランスがいきなりSR40以上に上げて超ロングスパートの前代未聞の奇襲に出たのです。SR42、44と上げるフランス!そう、シドニーM2-のフランス伝説のロングスパート、それを演出したストロークは現FISA会長のジャン・クリストフ・ロラン氏その人です。アメリカもこれに負けじと猛追し、結局金メダルは乾坤一擲の賭けに勝ったフランス、銀はアメリカ、銅は見せ場なく勝負をかけられなかったオーストラリアでした。
地元で不完全燃焼に終わるとは、トムキンスとジンは4年前には考えられなかったでしょう。しかしこれもボートです。

オーストラリアは、五輪3連覇も夢ではなかった新生M4-もレッドグレーブとピンセントのイギリスが有終の美を飾り優勝、死力を尽くしてラストアタックをかけたオーストラリアは同じく勇敢なイタリアのスプリントにかわされ3位銅メダル。LM4-は、デンマークも故障によるメンバー交代でビッグチャンス到来でしたが、このチャンスをミラクルなレースで加速し続けたフランスがオーストラリアとの一騎打ちに競り勝ちギザビエ・ドルフマンの男泣きの結末となりました。
何かが乗り移ったかのような、魂のレースが目立ったのがシドニーでしたが、どうもオーストラリアはいずれもスマートな印象が残り、地元でありながら金メダルをもぎとるには執念がさらに必要な感じが残りました。その中で、マイク・マッケイが乗ったM8+は、イギリスを最後まで追い詰めて敗れはしましたが気持ち溢れる執念の銀メダルとなりました。



こののち、アテネの2004年には39歳を迎えるトムキンスは最後の五輪チャレンジに向かいます。故障の癒えたドリュー・ジンと、今度こそ最強M2-を完成させて。
2002年は故障明けで今一つでしたが、2003年世界選手権ミラノで完勝すると、2004年アテネでは集大成となるレースをします。スタートから珍しく烈しくアタックをかけるトムキンスとジン。コンスタントで最高の手ごたえを得たオーストラリアは、クロアチアやドイツのアタックにも動じることなく自らのRowingをキープします。第3でも離し続け、ラストはクロアチアの巨漢ペア・スケリン兄弟のスパートを振り切りトップでゴール。いつもの余裕あるフィニッシュで、トムキンスは彼らしいレースで3個目の金メダルを手に入れたのです。
アテネ五輪M2-決勝

金、金、銅、金。もしシドニーで相棒のジンが故障しなかったら、トムキンスはもしかすると4大会連続の金という偉業を成し遂げていたかもしれません。しかし、オーサム・フォーサムのリーダー的存在として、飄々と前をワイドに漕ぐオーストラリアのスムーズな漕ぎを、一つの個性としてRowingファンの心に焼き付けた印象は、変わることはないと思います。

トムキンスとジンのUT動画
これだけ見れば彼らのスムーズで大きな漕ぎが分かる。私がコーチ初期にめざしていた漕ぎと艇の動かし方です。

トムキンスとジンのM2- gettyimagesより
アテネ五輪M2-で自身3個目の金メダル。Sトムキンス、Bジン
Gettyimagesより写真転載




トムキンスと長くM2-を組んだジン。彼のキャリアはまだ続きます。
2008年北京に向けて、新たにダンカン・フリーとパートナーを組み、M2-連覇に挑みます。2006年イートン、2007年ミュンヘンと順調に連覇し、強さを見せ続けるオーストラリアM2-。2008年北京五輪では、カナダとNZがライバルとなりますが、先行するカナダにぴったりと並走しコンスタント勝負をかけていきます。安定した漕ぎを見せるオーストラリアは、第3でややダウンしたカナダを捉え、少しずつプレッシャーをかけていくと、ラストは一気にスパートをかけて素晴らしく大きな漕ぎで1艇身をつけ、完勝と言えるレースで2大会連続金メダルとなりました。
ドリュー・ジン World Rowingより
オーストラリア男子スイープ陣の時代を受け継ぎ、次代へと引き継いだ、金3個、銀1個の名選手ドリュー・ジン。度重なる故障にも何度もカムバックを果たした。
World Rowingより写真転載







11.オーストラリア、新たな世代へ
そしてオーサム・フォーサムの最終章は、ロンドンです。ジンの乗るクルーは、2011年スロベニアのブレド世界選手権で始動。若手の期待株ジョシュア・ダンクリー=スミスをストロークに乗せたオーストラリアM4-は3位とすると、翌2012年のロンドン決戦に挑みます。Sジョシュア・ダンクリー=スミス、3ジン、2ジェームズ・チャップマン、Bロックウッドというクルーでした。相手はM4-最強の座をオーストラリアからとうに奪った、五輪4連覇をめざすイギリスです。Sアンドリュー・トリッグス=ホッジ、3トム・ジェイムズ、2ピート・リード、Bアレックス・グレゴリーの、このブログでもおなじみのメンバーですね。
スタートから激しく競りかけ、火花散るレースは早くもイギリスとオーストラリアのマッチレースの様相。しかし地力の差かイギリスの主導権を奪うには至らずキャンバス以内には入れさせてもらえず、レベルの高い駆け引きの中で膠着させられたオーストラリアは、無念力負けの銀となります。

トムキンス時代を知るジンは、若手をM4-の頂点に立たせてあげられませんでした。しかし、そのオーサム・フォーサムの魂を受け継いだジョシュア・ダンクリー=スミス、順調に成長しロンドンではリーダーとしてやはりイギリスに及ばず2大会連続銀となるも、オージーM4-復活の時は着々とはじまっています。2017年には宿敵イギリスについに勝ち、本腰を入れてくるであろう東京への最強M4-対決に、豪VS英の決着は果たされるのか。そしてあるいは、イタリアなどが入り3強となるのか。
オーストラリア、リオ五輪代表M4- getty imagesより
リオ五輪M4-は銀に終わったが、東京に向けて大きく成長しそうな豪州M4-
getty imagesより写真転載


そのダンクリー=スミス選手、2018年の今年、ついにエルゴ世界記録を作りましたね!!
World Rowing、4月の記事です。それまでエルゴの世界レコードは長らくNZのロブ・ワデル(シドニー五輪M1X金)の持つ5'36"6でしたが、今年の3月10日に、オーストラリアのダンクリー=スミス選手が5'35"8を出して久々に記録を塗り替えたのです!いやー、すごいですよね。ワデルのような200cm97kgといった巨漢ならともかく、オープンで確かに大きいですが一見優しい顔つきのダンクリー=スミスが世界一のエルゴ記録を更新したのは驚きでした。公式プロフィールは194cm98kgですが・・・。
彼は、残念ながらリオで代表選手からの引退を宣言しているようで、2017年もレースに出ていなかったようなのですが、今年世界一どころかRowing史上一のフィジカルを示したわけですから、ぜひ代表に戻ってきてほしいものであります。
オーストラリアをタイムリーな話題と冒頭で言ったのは、この記録達成のニュースがあったからです。実は4月からずっとオーストラリアの記事を書きたかったんですが、延びに延びて今になってしまいましたけれど。(笑)
ジョシュア・ダンクリー=スミス World Rowingより
ライバルNZの世界記録を破ったのも大きい?世界で一番エルゴを回す男、ジョシュア・ダンクリー=スミス。5'35"8のスコアを叩き出した
World Rowingより



このほか、女子でもリオ五輪W1Xで悲願の金メダルを獲得したキム・ブレナンがおり、オーストラリアを代表する名選手。このブログでは、世界選手権の記事で何度も紹介しているのでおなじみですね。
キム・ブレナンロンドン五輪銀 ハフィントンhuffingtonpostより
キム・ブレナン(旧姓クロウ)、陸上選手から怪我を機に20歳でボートを始め、メルボルン大ボート部で一気に飛躍しロンドン五輪でダブルワークのW2X銀、W1X銅。そしてリオ五輪でついにW1X金。オーストラリアの歴史に名を刻んだ
https://www. Huffingtonpost.com.auより写真転載


彼らのまた次の若い世代が、次々に育っており、東京ではまた素晴らしいRowingの才能が、豪の者たちがたくさん活躍する時を待っています。
日本よりもずっと人口が少ないなんて言いながらも、オーストラリアにはたくさんの強い人たち、魅力的な人たちで溢れているではありませんか。


オーストラリアは1984年に国としてナショナルカラーをゴールド(黄色で代用)と緑の2色に制定しました。
ユニフォームやブレードカラーはこの色で存在感を示しています。
東京ではそのゴールドを獲りに、M4-をフラッグシップにして多くの金メダル候補クルーを送り込んでくるでしょう。NZのほうが優位に立っている印象の昨今ですが、ライバルの上に立つ勢いを見せ、オセアニアの2強が競い合って席巻するか。




荒波を渡り、冒険心と勇気をもって開拓してきたオーストラリアやオセアニアの先人たち。そのチャレンジ精神を示すような、Rowingを誇りとする強き豪のクルーたち。
日本も彼らの力と知恵と勇気に負けていられませんね!
繰り返しますが我々自身、自国開催を契機としてオーストラリアの成功に学び、超えていきましょう。






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